群馬県太田市金山城址

歴史の大舞台に出たことのない小さなお城ですが、私の生まれ故郷にある金山城のことでも。



太田市の中央に独立してそびえる金山(かなやま)は標高235.8mと、さほど高い山ではありませんが、朝な夕な太田市のどこからでも望むことができる、太田市のシンボル、太田市を代表する景観になっている山です。













新田氏一族の岩松家純(いわまついえずみ)が京兆家と礼部家の二系統に分裂していた岩松氏を統合し、応仁3年・文明元年(1469)にその重臣横瀬国繁に命じ、世良田長楽寺の僧、松陰軒西堂の縄張りにより金山城を築かせました。









横瀬泰繁・成繁父子は岩松氏から実権を奪い、実質的な金山城主となりました。永禄8年(1565)頃、横瀬から由良と改姓し、国人領主を改め戦国大名の地位を得ました。天正年間の最盛期には新田・桐生・赤石(伊勢崎)・館林・足利などを手中に収め、東上野に君臨しました。この間、甲斐の武田氏・越後の上杉氏・相模の小田原北条氏などの戦国大名と、時に連携し、時に敵対し、攻防を繰り返しましたが、金山城は難攻不落を誇りました。


金山南麓の新田口には文明年間(1469~1486)に横瀬氏の菩提寺として、金龍寺(きんりゅうじ)が創建されています。











天正12年(1584)小田原北条氏に金山城主由良国繁とその弟で館林城主長尾顕長が幽閉され、金山城は北条氏により攻撃されましたが、二人の帰還を条件に金山城を北条氏に明け渡すこととなり、由良氏は桐生城に退きました。金山城には北条氏の家臣が配置されました。

天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻略に伴い、金山城は廃城となりました。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
「呑龍様」の名で広く知られている大光院(だいこういん)は金山南麓にある浄土宗の寺院で、正式には義重山新田寺大光院といいます。慶長18年 (1613)に徳川家康により、その祖とした新田義重追善のため、寺領300石で呑龍上人(どんりゅうしょうにん)を開山として創建されました。呑龍は生活困窮者の子供を弟子として引き取って養育、その高徳により、現在も「子育て呑龍」として厚い信仰を集めています。
太田市役所の金山城の歴史より抜粋。
 

人気ブログランキングへ

0 件のコメント:

コメントを投稿